
正解が用意された日常の傍らで
世界は今、あらかじめ用意された答えと、最適化された情報で溢れています。
瞬時に手に入る明快な結論、AIによって整理された膨大なデータ、シミュレーションによって予測可能な結果。私たちは、あらゆる曖昧な事象がロジックによって補完され、効率的に制御できる環境の中にいます。
こうしたテクノロジーの進化は、私たちの日常を支える不可欠な基盤です。しかし、すべてを「最適解」へと翻訳し、効率を最大化させていく過程で、どこか拭いきれない違和感を覚えることもあります。
「効率」の傍らで切り捨てられるもの
論理的に説明しきれない曖昧なものや、直接的な結果に結びつかない要素は、効率の観点からは「無駄」として削ぎ落とされていきます。
情報の波は瞬時に、そして最適化された状態で押し寄せ、知りたい答えはすぐに見つかる。その一方で、そこに至るまでの「迷う時間」や「自ら想像を巡らすための余白」が、驚くほどの速さで失われているように感じるのです。
本来、物事には0か1かでは割り切れない領域が存在します。一見すると「よくわからないもの」の中には、一人ひとりの解釈が介在する豊かさがあったはずです。デジタル化の恩恵を十分に理解しているからこそ、その影で削ぎ落とされていくものの価値を、私はもう一度見つめ直したいと考えました。
物質という「ファクト」への回帰
効率が優先される日常の中で、私の根底にある感覚が、かつて慣れ親しんだ銀塩モノクロの感触を自然と呼び起こしました。
中判のフィルムカメラという道具には、確実なプロセスを必要とする重みがあります。1本のフィルムに許された、わずか12枚という制約。次の一枚を繰り出すたびに生まれる「本当に今、切るべきなのか」という自問自答。
その物理的な手応えが、私を「とりあえず撮っておく」という曖昧な判断から遠ざけ、目の前の光景を自分の中に深く刻み込む時間を与えてくれます。
銀塩写真は、光を銀の結晶として定着させます。そこには当時の光が、手に取れる「物質」として、ごまかしの利かないファクト(事実)の状態で存在し続けます。あらゆるものがデータ化され、容易に形を変えていく今だからこそ、物理的な実体を伴うこのプロセスに、私は自分自身の足跡を確かめるような確かな手応えを感じています。
「ハーフトーン」を許容できる場所
こうして手元に残る写真は、すべてを雄弁に語るわけではありません。情報をあえて削ぎ落としたモノクロームの階調は、そこにあるはずの色や音、かつてそこに誰かがいたという気配を、見る人の想像力に委ねることになります。
現代はあまりに明確な答えを求めすぎるきらいがあります。0か1か、正解か無駄か。そうした二元論の中では、割り切れない「ハーフトーン(中間調)」のような領域は切り捨てられてしまいます。けれど、正解のない領域にこそ、人が自由に思考を巡らせる豊かさがあるはずです。
誰かにとっての正解を提示するのではない。一枚の静止画から自由に想像を巡らす楽しみを分かち合いたい。この「Trace Chronicles」は、私が私自身の痕跡(Trace)を記録しながら、そうした「余白」を確かめていくための場所です。
効率や正解を求める日常の傍らで、一枚のシャッターから始まる物語を、丁寧に綴っていこうと思います。

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